長野に引っ越して来た年(2013年)の夏、私たちは久しぶりに白根山を訪ねた。中野市から志賀高原に向かい、国道最高地点を通って白根山駐車場に車を停めた。レストハウスで買ったソーセージをおかずに、横手山山頂で買い込んできたパンを、広々とした屋外テーブルで食べた。湯釜を眺めようと少し山道を登ったが、昔、初めて訪れた時の右から行く道は立ち入り禁止になり、左の高台を登って遠くから湯釜を見下ろすようになっていた。少しずつ危険値が上がっていたのだろうか。夫が子供の頃は湯釜の湖面近くまで行けたそうだ。それでもまだ自由に歩けたので、私たちは弓池周辺の湿原を歩いて、高山植物に挨拶することもできた。弓池の周辺はツマトリソウの群落が白く光っていた。
私たちが初めて湯釜を見たのは20年以上前になる。忙しい仕事に忙殺されて疲れていた気分を盛り上げようと、6月の休日、志賀高原に向かった。当時住んでいた関東から長野への道は遠かった。まだ上信越自動車道は開通していなかったので、軽井沢から万座ハイウェイを登った。その時初めて白根山に立ち寄り、湯釜を見た。白根山は見るからに火山の様相だったが、比較的安定していて、有名な草津や志賀高原の隣に位置するせいか、訪れる人の多いところという印象だった。火山の雰囲気が濃い湯釜には観光客が遊んでいた。火山岩の積もった赤茶色の山をしばらく登ると目の前に広がるライトブルー。当時は水辺が近かった。白く青く空を映している湯釜は、古代の鏡のようで神秘的だった。関東では暑いほどの日々なのに、白根山にはまだ雪がたくさん残っていた。
白根山から渋峠を通り、志賀高原へ向かった。志賀草津道路はまだ有料道路となっていたので、国道の最高地点ではなかった(当時は八ヶ岳の麦草峠付近が最高地点だった)。
私たちは、何箇所か志賀高原の寄り道を楽しんだ。信州大学自然教育園をたずね、前山リフトに乗り、小さな池めぐりをして、中央道を通って帰った。
本白根山に登ってみようと、草津白根駐車場に車を停めたのは2000年の夏。激しい降りではなかったけれど、覆い被さる雲の雫が落ちてくるようにこやみなく雨が降っていた。
「雨が降っていたけど、コマクサが満開だったね」
「あんまり写真が残っていないけれど、どうしてかな」「雨だったからかな」。
昔のアルバムを紐解くと、雨に煙る本白根の草原に、どこまでもコマクサが続いている様子があった。2165mの三角点は硫化水素が発生する危険があるということで立ち入り禁止、現在は探勝歩道最高地点を山頂としている。本白根山に登って、万座、軽井沢を通って帰ったことを思い出す。
2日間天気に恵まれ、前日まで歩いた妙高山、火打山の花々をたっぷり楽しんだ私たちは、最初はまっすぐ帰るつもりだった。しかし宿を出る頃、雲は重かったけれどまだ雨は落ちていなかったので、コマクサを見て帰ろうという話になった。
「ちょうどコマクサの季節だね」「草津白根山はコマクサの群落があるらしいよ」「駐車場から1時間半くらいだって、行ってみようか」。
今思えばずいぶん若かった。宿のチェックアウトを済ませると、志賀方面に向かった。スキーで時々訪れていた奥志賀方面を左に分け、渋峠に向かってぐんぐん登り、寄り道をせず、まっしぐらに草津白根の駐車場に向かう。
駐車場から弓池を通り、道を登っていくと灌木の森に入る。この頃から雫が落ちてきた。重い雲が水を支えきれなくなったように、ぽとぽとと落ちてくる。
雨の中を歩くのはもちろん好きとは言えないが、土砂降りでなければ息がしやすいような面白さもある。森の木の枝がしなって揺れ、葉が光を放つように見えるのも、雨の日のプレゼントだ。足元のゴゼンタチバナが満開で、歩いても歩いても白い星を散らばせている。水を吸ってしっとり輝いている。
しばらく森の中を歩くと急に目の前が真っ白になった。晴れていれば火山特有の岩の斜面なのだろうけれど、雨と霧で遠くは見えない。ただ一面に小さな花が咲いている。進むにつれて周りは広々とした高原のようになり、コマクサがどこまでも続いている。そしてもちろん、こんな雨の日にやってくる物好きは私たちだけ。
二人でコマクサを堪能し、シロバナコマクサを見つけて喜び、雨の日の山歩きも悪くないねと、つぶやく。ちょっぴり負け惜しみも入っているのは否定しないけれど。
木道を進んで、わずかに登ると、本白根探勝歩道最高地点の標識が立っていた。交代で記念撮影をして、私たちは再び、雨とコマクサの中を帰った。