加藤文太郎(1905−1936登山家)著の『単独行(1970二見書房刊)』が我が家の本棚にある。山道を歩くのが大好きな私もいつも一人で山を歩いていた。そんな私には、単独で深く高い山懐に飲まれるように生きた加藤文太郎は魅力的だった。
その加藤文太郎が最初に歩いた山、六甲山に行ってみたいと思っていた。今では山上に車の道路も通っている六甲は、山というより観光地になっていることは知っていたが、それでも文太郎が風のように通り過ぎたという頂を自分の肌で感じたいと思っていた。
しかし、六甲は遠い。ゴールデンウィークの前半を利用して、新幹線で出発したのは、もう定年も近くなってからのことだった。
久しぶりに乗る東海道新幹線で新神戸の駅に降りた。新神戸駅の雑踏を避けながらキョロキョロしていると、インフィオラータの案内が目に入った。道路に花を敷いて絵を描くという。花で絵を描くとはどのようにするのだろう。興味深く、行ってみることにした。山手の偉人館街も歩いてみたいし・・・、北野天満神社にも挨拶したい。
神戸のインフィオラータは、イタリアのジェンツァーノのインフィオラータにヒントを得て、1997年に始まったという。私たちが見に行った北野坂は2001年からだそうだ。道路に敷き詰められた花びらの色鮮やかなことに驚いた。そしてジェンツァーノにヒントを得たというのもびっくり。バレエの『ジェンツァーノの花まつり』はこの祭りに関わるお話だったか、なんだか感動した。
思いがけぬ楽しみの時間の後、電車に乗って有馬温泉に向かった。有馬温泉といえば、江戸時代から草津、下呂と並んで3名湯の一つにうたわれる名湯。有馬温泉駅を降りると、深い川が流れている。赤い優雅な橋は、ねね橋。秀吉が愛したというこの温泉の観光目玉となっているようだ。橋のたもとには、ねね像が立っていた。
温泉に浸かってのんびりと朝を迎え、いよいよ六甲の山に入る。ロープウェイに乗ると、一気に六甲山縦走路に行けるらしい。12分の空の旅、六甲は想像していたより深い山だった。起伏のある山の上を空中散歩しながら山頂駅に向かう。私たちが乗ったのは2代目のゴンドラだそうだが、これを書いている2020年の春には新しくスイス製の3代目が運行されるそうだ。私たちが乗った2代目は、1月半ばにさよなら運転をしたそうだ。
六甲山縦走路と案内が出ている道を歩く。気持ち良い山上の散歩道だ。アセビやツバキが咲いている道を進み、六甲山最高点に着く。見晴らしが良い。春霞の柔らかい空気の向こうに神戸の街と一緒に海が見えている。
山上は風が強く、ただ立っていると肌寒いくらいだったけれど、森の中に入ると風は無くなった。深くえぐれた道の脇にはアセビが重そうに白い花穂をかかげ、その独特な枝振りで頭上に傘となっている。真っ赤な椿の花や、空を覆うように揺れている山桜も山の気分を盛り上げてくれた。
さて、どっちへ行こうか・・・。もう一度地図を眺めて『ロックガーデン』に心が揺れた。『魚屋(ととや)道』という名前も面白い。この道を行き、芦屋に降りることにした。歩いてみると、階段あり、沢あり、深くえぐれた山道ありの変化に富んだコースだ。淡いピンクの花が道の脇に寄り添っている、コバノミツバツツジだろうか。
花崗岩が風化してできた六甲山は、酸性土壌を好むツツジ科の木が多いそうだ。たくさん見られるアセビもツツジ科だ。水辺にはツボスミレもたくさん咲いている。豊かな花の道に満足感が膨らんでくる。
六甲山最高点から魚屋(ととや)道、本庄橋跡の沢、雨ヶ峠を過ぎ、風吹岩で風景を楽しみながら小休憩。そしてロックガーデンの中央尾根を降り、高座滝に出た。小さな滝を背景に茶店があったので、暖かいおでんとコーヒーをいただいて、ホッとする。
ふと見ると、草の中に鮮やかな黄色い花が立っている。オドリコソウ?こんな黄色のオドリコソウがあるんだと、びっくり。
ゆっくり休み、暖かいコーヒーもいただいたので、芦屋から神戸へ向かう。たった1日、六甲の一部分だけの旅だったけれど、ロープウェイから見下ろす深い森、公園のような稜線上のそぞろ歩き、深くえぐれた昔の人たちの足跡を感じる山道、花崗岩の白い岩肌も荒々しいロックガーデン・・・変化に富んだ山道だ。私たちは途中で見つけた標識をみんなカメラに収めていた。
阪急の芦屋川駅から電車に乗り、神戸へ。ホテルにチェックインして町歩きをしようと話していたが、ホテルに行くまでに町歩きが始まった。三宮の高架下の賑わいはどこまでも続くかと思われる。人混みは苦手と言いながら、歩く人々の勢いについ頬が笑ってしまう。元町にたどり着き、ホテルに荷物を置いてから、ポートタワーまで行ってみることにした。ポートタワー周辺は広々と整理されていて気持ち良いが、ちょっと寂れている感じもしてしまった。地下鉄の駅に宣伝があったので、私たちは新長田駅まで足を伸ばし、懐かしいものを見に行った。
懐かしいもの?何かと言うと『鉄人28号』。どうしてここにあるのか不勉強で知らないが、巨大な鉄人28号が駅前の広場に立っていた。子どもの頃からほとんどテレビを見ない私たちだったが、鉄腕アトム、鉄人28号は知っている。科学への大きな夢が形を表してくれたような興奮があったと思う。
さて、あっという間に帰る日だ。このまま帰るのはもったいない。近いところにある摩耶山を訪ねてみようと話はまとまった。ケーブルの始発は10時だったので、ホテルを早く出て周辺を少し歩いた。国指定重要文化財という旧神戸居留地15番館や、華やかな門で迎える中華街などを見て歩き、駅へ向かう。三宮から王子公園駅に行き、摩耶山ケーブル始発に乗る。
摩耶(まや)山は六甲山の前山にあたるが、ケーブルやロープウェイが早くから開発されてきたので、誰でも登りやすいそうだ。そして夜景が美しいと評判の山らしいが、残念ながら夜まではいられない。
ケーブルの上の駅、虹の駅から私たちは歩く。その先にはロープウェイがあるから山道を歩く人には出会わない。昔からの道らしく、広い階段が立派な山道なのだが・・・。誰にも会わないまま、三等三角点のある摩耶山頂に到着。途中ポツリポツリと雨粒に当たられたが、傘をさすほどもなく、森の中の木の葉から落ちる雨の光を見ながらゆっくり登った。
山頂から少し歩いたところに展望台があった。ここ掬星台(きくせいだい)からの夜景は、函館、長崎と並ぶ日本三大夜景の一つに数えられているというが、生憎の曇り空で街も霞んで見える。掬星台って、手で星が掬えるくらい高いという意味だそうだが、人々の暮らしに近かったんだなと思う。
ケーブルを使ったので、山頂には11時過ぎに着いたけれど、天気も良くないし、帰りの新幹線の時間も気になったので、ここからはバスで降りることにした。
下に降りると、最後にたこ焼きを食べようと盛り上がった。関東ではなかなか味わえないたこ焼きとは、スープの中にたこ焼きが浮いているという、神戸たこ焼き。小さなお店をのぞいたら『スープたこ焼き』というのがあったので、それを頼んだ。
新神戸の雑踏の中を時間潰しにふらふら歩き、自分たちへのお土産を買う。何気なく買った『壺プリン』が絶品だった。
加藤文太郎が『単独行について』という短文の中で「我々は山へ登ることは良いと信じて登らなければならない」と書いている。ただただ山の魅力に引きずられるのではなく、胸の中に矜持を持って、と。